友人の死


1997年1月13日突然の電話で後輩の死を知らされた。
34才の短い生涯を閉じたこの後輩は96年4月にガンの
告知を受け、自分のいのちを見つめながら浄土に帰って
いった。
彼の苦しみも悲しみも私にはわかろうはずもなく、ただ
彼に会うために葬式に参列した。
その席で彼の亡くなる前日の手記というものを見せられ
彼の生き様と死に様に感動と言うにはあまりにも言葉が
貧弱な思いの気持ちにさせられた。
ここに彼の手記を紹介し今一度生について死について
皆様と一緒に考えてみたいと思います。



その後彼の友人から他にも手記があると聞かされ、早速
見せてもらった。
ここにその全文を掲載します。
なお中に □□ とあるのは、原文のままでわかりにくい
文字のためです。



目  次


“あの日”  “間にあった”   

“はじめに”   “台風の日に”    

“母が泣いている”   “ボタ山”     

“死の向こう側”


もどります もどります



“あの日”

(1月12日)

  誰にでもそんな日が来ることはあり得ることだとは思っていた。
色々な人の体験を聞いてきた。しかし、自分にそんな日が来る
とは、実はその瞬間まで思いもしなかったのだ。
  1995年4月4日、私は十二指腸潰瘍の手術を受けた。十二指
腸が潰瘍のために変形して食べ物を通さなくなっていたので、2ヶ月
の入院の末、手術を受けることになった。手術が終わり、麻酔から
覚めて、大きな縫い目のついた腹をみて、手術は成功したんで何の
問題もないものと思っていた。それから“あの日” まで1週間あまりは、
日に日に回復していく身体とよみがえってくる気力で何の疑いも持た
ずに過ぎた。
  4月14日になって、どうも父の様子がおかしいことに気づいた。
父は毎日病院に来てくれていたが、その日、朝来て、もう一度主治医に
会いに来るという。何時に約束したのかと聞くと、父だけで会うという。
その時違和感を感じたが、そんな疑問はすぐに自分で打ち消していた。
  その日の夕方、主治医、外科部長、看護婦長、父、私が病院の会議
室のようなところに集められた。
  言いにくそうにしている若い主治医にあきれて、外科部長の先生が病
状について説明された。
 “胆嚢ガン” “外科的治療法なし。” 先生は言いにくそうにしながらも、
すべてをズバリと言った。
 “後どのくらいあるのでしょうか” という私の質問に口ごもりながら
 “半年・・・” と言葉をのんだ。
その時私は冷静に “ああ、そうなのか” と思った。
  婦長さんが “誰でもいのちに限りがあるのだから・・・” と涙を見せた。
私は “それは私のせりふではないか・・・” と思った。そんなせりふを、
自分も健康なとき、傲慢にもはいてきた。初めてわかった。
健康なときには理屈でそういっているが、その実、身体ではうなづいて
いなかったのだ。
  すぐに夜がやってきた。父が帰宅し、消灯。真っ暗な病室で、私が考え
たことは、死ぬことについてではなかった。あと6ヶ月どう生きるか。
そのことで頭がいっぱいになった。
 “自分はどこに行きたいか” “誰に会いたいか” “何をしたいか”
しかし、何度考えても、特に行かなければならないところも、しなければ
ならないこともないような気がした。
 “今までと同じように、身体が続く限り生きたい”
  そして、友達とは、もう一度皆と会っておきたいと思った。
  こんなことを色々考えていると、想像していたような死の恐怖も不安も
思いつく暇もなかった。

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“間にあった”

“間にあった” と思った。私がもし、他宗の修行をして悟りを開く
宗派僧侶であったなら、今の私はとても間に合っていない。
 何の悟りもなく、全く一般の人と変わらない人間性しか持ち得て
いないのだ。
 だけど、私の聞いてきた教えは浄土真宗だ。とっくに “間にあっ
て” いたのだ。もうすでに摂め取られていたのだ。全く本願は頼り
になる。
 仏教について、勉強してきた。大学にも行った。色んな先生の話も
聞いた。難しい本も読んだ。
 だが、今の自分を支えているのは、難しい仏教の知識ではなかっ
た。覚えてきたことではなかった。
 “念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨
の利益にあづけしめたまふなり。”
 中学の頃にはもう読んでいた歎異抄の一節。
 そう、もっともっと単純なことだったのだ。
 思えば自分の勉強は、人にどれだけ偉い人物とみてもらいたい
かという勉強であった。
 本当に大切なことは、お寺に参ってきて、ことあるごとにお念仏し
ていたあのおばあちゃん、その後ろ姿から学んだことだったのだ。
 この教えに出会えたことが、私の最大の幸せ、喜びと初めて気づ
かされた。
                       南無阿弥陀仏

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“はじめに”

(6月4日)

 何から書き始めればいいのか、自分に何が起こっているのか、
もう一つ実感がない。しかし、それでも何か思うことを書くことで、
人に何か伝わり、自分自身の気持ちの整理もつくのなら、とにかく
思いつくまま書くこと以外にできることもない。
 今、確かに生きている。この瞬間生きている。こんな風に考えた
ことは今までにもあったかもしれないが、これほど確かに感じた
ことはなかった。□□夜、布団に入り、夢をみて、そして朝目覚める、
こんな当たり前のことが、とても愛おしい。

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“台風の日に”

(7月18日)

 外は大風家の中でクーラー
 生きている、確かに平和な時間が流れる。
この平和がいつまで。
 何時までも続く気がする。
 永遠の今。今、このとき生きている。
'96 7月18日 午後11時12分、
もうすぐオリンピックだ。

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“母が泣いている”

 つらいのは母のこと。つらいのは父のこと。
 母は在家から当時、炭坑が閉山寸前の筑豊のこの寺に
嫁いだ。自分の子供の頃を考えても決して裕福ではなく、
むしろ貧乏といっても良かったと思う。
私の粉ミルクを買う金もないときがあったと聞いたことがある。
 そんな中で、母は一生懸命、私と弟を育て、明光寺のために
尽くしてきた。今から、私が楽をさせてあげなければならない、
こんな時に当の息子に先立たれる。何故、私はそんな悲しみを
母に与えなければならないのだろう。母は一つも悪くないのに・・・。
母は近頃いつも泣いている。
 今までに色々悔しい思いをして泣いたことはあっただろう。
でも今の涙はもっと大きな悲しみを抱えた涙のように見える。
私は決して許されないことをしようとしている。最低限の恩返し、
母より長く生きることが出来ぬまま、母と別れようとしている。
 でも母はもう許している。許されるはずもないのに母はもう私を
許しているのだ。
 父は私にすべてのことを教えてくれた。すべてとは、浄土真宗の
教えだ。身を持っての説法だった。その百分の一でも恩に報わね
ばならぬのに、何一つ、果たせぬまま・・・。
 かつて私は父を尊敬していた。父のような僧侶になりたいと思っ
ていた。大学を卒業し自分も僧侶となって、何度か幻滅したり、
ああはなりたくないと思うことがあった。でもいま、毎日、私のため
にポータブルトイレの後を片づける父をみて心から誇りに思う。
私にとって最大の師であり、また御同朋と呼べるのは父をおいて
なかったのだと思う。
 私にとって今必要な時間は、母や父と少しでも長くいるだけ・・・。

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“ボタ山”

私の家の前には、大きなボタ山がある。
かつて、”ボタ山一メートルごとに一人死んだ”と言われる
悲しみの山だ。私はそんなこともほとんど知らず、最も懐か
しく、温かみの感じる風景として、ボタ山をあおいできた。
筑豊に生まれて、よかったと思っている。
          ―亡くなる前日の手記より―

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“死の向こう側”

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 死の向こう側には何があるのか。
 浄土真宗ならそれは浄土だろう。
 しかし、どんなに□□めぐらせても、死後意識が続いて
いるとは思えない。死ねばそこ□□終わりで無ではないか
と思う。死の向こう側は、生きている人にはあっても、死なん
とする人にはないのではないか・・・・・。
 □そんな風に考えている。
 しかし、そこで”それは所詮おまえが頭で考えたことだろう”
という声が聞こえる。私の乏しい知識と情報と科学という手法を
めぐらして、勝手にそう考えている。このちっぽけな頭で・・・・・。
 ”まかせればいい”まかせればいいのだ・・・・。
 友人が生まれたばかりの我が子に先立たれ、冷たくなっていく
身体を抱えて、”ああこの子は先にお浄土に行ってまってくれるんだ。
自分もいつかそこで会えるんだ”と思いお浄土を身近に感じると
語ってくれたことがある。
 それは、間違いなく真実なのだ。必ず待っていてくれるのだ・・・・・。

 映画の中やテレビの中で人が死ぬと、死ぬ人の側に感情移入して
しまう。
 ニュースで事故や殺人によって人が死ぬ□□
 前とは全然違う感覚でみている。胸がしめつけられるのだ。本当に
心から願う。
 人間が人間としてあつかわれる、人間が人間として死んでいける
世界を・・・・。

 NHKで血友病患者のエイズ感染者の映像が流れ、二分とみて
いられない。私は自らの病で私以外の誰にもその責任はないが、
彼らは違う。”死ねない”という。このつらさが本当にわかるように
なってしまった。死ねないのに死ぬことのつらさ、恐怖。私は幸せだ。
 死もまた我らなり(清沢)にならって、私はガンもまた我らなり。
そうガンは私の一部で私が死ぬときにガンもまた死ぬ。同じ一つの
いのちを生きている”我ら”なのだ。そんな言葉が浮かんだ。

 身体がだんだんと弱ってきて、人恋しくなった。”独生独死”と教えら
れてきたが、死は真の孤独だ。子どもを道連れにして自殺する親の
気持ちが初めてわかる。寂しいものだ。
 病室に人が訪ねてくると、前はめんどくさくて早く帰ってほしかったが、
今はまっている。
 朝父が来て、色々と世話をしてくれて帰ると次は何時くるのか、
もう待っている。
 南無阿弥陀仏と共にある。はずなのに・・・・・。
 世の中安穏なれ、仏法ひろまれと心から思う。そのために何もでき
なかった自分だが・・・・。一人安心して死んでいっていいのか・・・・・。

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